早川ソロル
Chapter1
1日目
いたって健康的な生活を送る日々、この時間は明日に向けてもう寝ている頃合いだ。突然のアナウンスにも、突然の事態にも、現実味がない。夢だと思った方が自然だし賢明なのではないか。精神衛生上はそうなのだろう。
鼻につく血の臭いは医者を目指すものならば多少なり付き合いを覚悟をする代物だが、何せ自分は小児科医。きっと、滅多に縁のあるものではないと思っていたのだ。
だから、
「ぁ、うぅ……」
情けなく呻いて、青ざめてしまっても、夢だから大丈夫だと信じたい。手首に無情に嵌められた、手錠のような冷たさが否定するそれを信じていたい。
苦しくて情けない気持ちで一杯だった。一目で助からないとわかっていても、自分は医者なのだから、手を差しのべなればならないのに。助けようとしなければならないのに。どうしようもなく自分の手も足もすくんでしまった。無惨に爆破されて死んでしまった女の子を、前に。
最悪の夜が明け、朝になった。下手に外に出るのも、積極的に他の人に話しかけるのもどちらも怖くて仕方がなくて、ひっそりと隅の方で膝を抱えたまま意識を失ったらしい。変な寝方をしたから体が痛い。痛いのでこれは夢ではないようだ。その否定を、嫌々ながらやんわりと受け入れられていると言うことは、一晩眠って自分も少しは落ち着いたのだろう。
あまりに唐突すぎたのも、死んだ少女と距離があったことも幸いした。もしもっと近くだったり、ましてや血を被るような状態になったら自分は取り乱し泣きわめいて、何かしでかしたかもしれない。そういえば、少女の近くで血塗れで高笑いする恐ろしい人がいた気がしたが、たぶんそれこそ夢だと思う。夢だといい。夢であってくれ。
凝り固まって軋む体を何とか動かして、解すように何度か伸びをしたりして動かす。大きな欠伸をした。昨日はインフルエンザの流行る時期だからか、やたら患者さんが多くて帰るのが遅くなったのもあって元々寝不足だった。追い討ちをかけるような昨晩のことは安眠妨害も甚だしい。
眠い目を擦って、一先ずは死体をどうにかしなければと思い立つ。移動する度胸はもう少ししたら湧くかもしれないが、今はこの建物のどこに何があるのだとか、そういうことも全くわからない。それまで死体を野晒しにしておくのもうら若きお仏様がかわいそうだ。
何かかけるものはないだろうか。下手に動きたくない気持ちへ男の子特有の冒険心を焚き付けてリング上に立たせる。大丈夫、おれはつよいこ。めげないしょげない泣いちゃダメってがんこさんも言ってた。
3日目
静かな部屋。自分しかいない空間。ベッド。クロゼット。椅子。机。真新しいシーツ。
もう怖じ気づかずに触れられるようになった腕輪を操作すれば、無音を割ってあの声が響き始める。自分達をここへ閉じ込めた声。ただのお遊びだと思っていた自分を嘲笑うように告げられるアナウンスは、否定し続けた行為の存在を推奨するように、実に愉快そうに、明朗に流れた。何度聞き直しても、内容が変わることはない。事実が誤魔化されることはない。
二日目から一晩明けた朝、早川は部屋から出ずにいた。出られずにいたと言うのかもしれない。
出ない方がいいのだと思う。他人を刺激せず、自分も死なないようなやり方。しかし、そんな人間の消極的な一面を見越したかのように、殺人を犯さなければ無作為に殺すと言う。あの夜のように、前触れなく、無意味に、理不尽に、殺すのだと言う。
震えが走った腕を押さえ付けた。
どうすればいいのだろう。
どうすればいいのだろう。
考えても考えても妙案は浮かばない。非力な自分ではもしものことがあったとき、誰の助けにもなれない。それどころか、もしかしたらその非力さで望まぬ人に自分を殺させてしまうかもしれない。殺されてしまうかもしれない。それならば部屋から出ないのが一番いいのではないか?
首を振る。
どんなに腕っぷしが弱くても、何かすれば助けられる誰かがいるかもしれない。それなのに、部屋にとじ込もって震えていてどうする。
気持ちを奮い立たせて、立ち上がる。きっと空腹だから元気が出ないだけだ。きっとそうだ。自分の考えに頷いて、部屋から出た。
- 最終更新:2018-02-28 20:26:24