廣田ソロル
Chapter1
1日目
「ふわぁぁ……私は頭を使うのが一等嫌いなんだけどねぇ。さて、どうしたもんかぁ。」
虚空を軋るような、口ぶりだけ動的ながら、中身はからっぽな、実に無機質なアナウンスと、親愛なる朱の散華。恐らく、常人ならばまともに直視できるかどうか。
だが、最初に出た感想は、怒りや悲しみやそんな都合の良いものではなく、死んだ女が丁度生徒に似ている、だのという実に冷たいものであった。
仮に、この女の無関心さを支えている支柱のようなものがあるとしたらば、それは、恐らく妹の事であろう。この女には、難病の妹が居た。それを僅かにでも生きながらえさせるには、恐ろしく手間がかかり、また、金もかかる。
常日頃からの素寒貧はこの為であり、それで得るのは、度重なる薬の投与で無残な姿になりながらも、一応生きている肉の塊。
いつ死に顔になるかも分からない、妙な斑点だらけの顔を見るたび心配するフリはしたが、どうしても根本では、くだらない、と思う他なかった。
それは介護のストレスであったろうし、倫理観の欠如であったろうし、また、人間性の歪みでもあったろう。夜眠る度、朝起きる度。
何やら人間の知覚する規模を超えた破局を、崩壊を、壊滅を、願わない日は無かった。手垢だらけの水晶の夜に鉄槌を下して粉々にしてくれる褐色の暴力を女は求めたし、それが最早息つく間もなく振りかぶられ、叩きつけられるものであることを何より望んだ。
だから、あの少女の死には、ある種の完成を見出していたのは想像に難くない。だが、その少女に何か胸がすく思いがあったわけでも、高揚を感じたわけでもない。
何か他の感情が介入する余地もないほど、名前を呼ばれ、爆ぜるまでのそれは自然であったのだ。
無慈悲なる爆殺はどう見ても酸鼻を尽くしていながら、生命の起源の大いなる流動すら垣間見えた気すらさせた。古き自然に触れたような気もした。
だが、その一瞬の宇宙との合一は、濁流のように押し寄せる生存欲求に混沌と吐き出され、手を伸ばす間もなく、思考の表層から落下した。忌避感の背後に、冒涜的な冒険心を植え付けたまま。
こうして、女の思考は、奇妙な中空を漂いながら、まるで孤独な銀河のように、ふらふらと投げ出されたまま、完全にまとまることとなる。帰着する先には、実に深い陰がさしていた。
「まあまずは、人に会おう。
生きるのには群れが必要だが……
扇動者(Hitler)は必ず最後に失敗する泥舟。勇者(Napoléon)は御者に裏切られる夢の荷馬車。
結局、無抵抗の産物(Maginot)にならない為に、動かなきゃあね」
それが、どうなるかは分からくとも、女には、歩き出すに足る意味は見出していた。
地獄に進む幽鬼にも、その足取りは似て。
「……流石に、一回寝ておくか。ケイジに言いに行かなきゃあまずい気がするが…体が動かん。」
文字通り、満身創痍だった。
これだけ色々な事があったのだから仕方ないが、あの台風みたいなやつを探しに走り回っていたら、爆弾で吹き飛ぶより先に、疲労で倒れそうであった。
失神したように体をベッドに投げ出して、布団すらなくなってしまった、殺風景な部屋を見渡す。シャワーは浴びれた。洗濯は…明日やろうか。なんのことは無い、こうなったらホテルと同じだ。当たり前な話だが、見た目だけでは、ここだって普通の客船だ。デスゲームの場でさえなければ、ここはきっと金持ちの談笑の場だったかもしれないし、恋人たちが愛を確かめていたかも分からない。なんて思えば、実におかしかった。なんせ、自分達も同じだからだ。こんなことさえなければ、何も変わらない日々だけがあって、そして、何も思わない時間ばかりが過ぎて朝を迎えるだけだったろう。それが今は、こんな有様。運が悪いにしても、程があるではないか。何せ、朝起きたらいきなり命懸けだ。そんな悪い冗談がほかにあって堪るか、と思ったあたりで、同じ巻き込まれた被害者に思いを馳せる。真っ黒の目隠しをしながら、その巨体を揺らし、海原を行くこいつは、果たしてどちらを幸せに思うんだろうか。自分の背中の上で臓物などぶちまけられたのだ。もしかしたら、やってられるか、とでも思うのかもしれない。そんなことを考えるのは、まさに詮無き事かもしれない。
けれど、どうしても心の中で思ってしまう。なぜ、こんな場所に来たんだろうかと。なぜ、自分だったのだろうと。
「何か、私達に恨みでもあるのか、主催者め。」
愚痴を零しながら寝転がりながらベッドの上で器用に服を脱ぐ。白衣の袖が、ドアからはみ出してしまうのも気にせず、上着と一緒に床に放り投げ、ベストのボタンを外し、ワイシャツを開けていく。寝るというのに、これではあんまりにも重苦しい。ズボンを下ろし、下着姿になれば、腕輪を隠すものはなくなり、素肌の上に金属の異物、という異常性がさらに際立った。内界と外界の国境線は消え、混沌を文字通り地肌で感じるようになる。"人が死んだ"その場所にいる、と体の感覚がはっきりと捉えた時、女の視界の遠近法は無くなった。ベッドに投げ出した身体は、意志とは正反対に、諤々と震え始め、枕を抱いて縮こまっていた。これまでの余裕はどこに消えたのか、というのは無粋である。極限状態の緊迫を断ち切られてしまったがために、日常を肌で感じてしまった為に、一気に抑えていた怯えが来たのだ。酒やタバコ、頭を使うのも、走り回るのも、なんなら、次の方策を練るのも、他人と話すのも。狂わせに狂わせ、辛うじてその痛みを自覚しないようにしていた理性を守護するための防壁であり、それは夢を見るための麻薬でもあった。
だが、夢は覚め、今は、誰も守るもののない身体は一人だけで、外界に打擲された。その不安に、誰が文句をつけられるだろう。
誰が、臆病者だ、根性無しだ、と抜かせるだろう。
「はは、やっぱり……怖いな。
私は、明日生きているだろうか。なんて泣き言でも言ったら、来てしまう、かな?困ったな、これじゃあ……まずい…の……に……」
胸が張り裂けそうになる。
心臓が早鐘を打つ。
そんな凡庸なる表現では、今の感情はおそらく一割も触れることは出来まい。頭で自嘲のセリフを吐くよりも早く、一筋、瞳の端から海の味のする水晶の粒が垂れて、唇を濡らした。
これまで不敵を装ってきた女の胸の中にも、赤子よりも弱く、老人よりも儚く、思春期よりも感受する「私」が居た。
それはきっと、物心、という悪心が芽生える前からある原始的な心象であるのは間違いなく、一等人間的であった。決して発展しないということ以上に、純粋なことがあるだろうか。抑えきれない感情、とはこういうものなのである。だが、幸いにも、女は剥き出しの感情の激痛をそう長くは味わわなかった。疲労感から来る睡魔が、高潔なる白馬の騎士となり、
敵愾心の棘を持った茨の園を、その白刃を持って切り裂き、
睡眠という唯一の逃げ道へと手を引いて誘っていった。
女はそれきり、朝かも分からないモノクロームな時間から引っ張り出してくれるような相棒が来るまで、死んだように眠りこけた。
- 最終更新:2018-02-28 14:05:36